みなさんこんにちは、夏みかんです!
今回は万葉集の木簡について解説していこうとおもいます!
それではさっそく行きましょう!
そもそも木簡とは
木簡というものは、簡単に言うと今でいう「紙」と同じようなものです。
日本では記録のために用いられ、これら木簡は多くの歴史を紐解く資料にもなりました。
木簡は1961年に平城京跡から初めて発掘されましたが、そのほとんどは平安朝になると姿を消しました。
なぜ一部の時代にしかなかったこの木簡が多くの歴史を紐解く資料になったかというと、基本的に研究当時の資料は写本や文献がほとんどだったからです。
そんな中、研究対象の当時に使われていたものが出てきたわけですから、これによって研究は大きく進んだといわれています。
木簡が歴史研究に与えた影響はすさまじく、近年では「木簡学」という学問も作られたり、「木簡学会」という木簡を専門に研究する学会も存在するほどです。
万葉集と木簡の関係
万葉集では日本最古の仮名文字である「万葉仮名」が使用されていました。ですがその「万葉仮名」がいつから存在し使われていたのかがわかりませんでした。学者の多くが律令制が本格的に始まった天武朝(673年~686年)からなのではないかと考え、その時代の木簡の出土を待っていました。
そのような中2006年に万葉仮名が使われた木簡が発見されました。
研究を進めると、この木簡は652年に光徳天皇の難波宮が完成するよりも前に捨てられていたことがわかりました。つまり天武朝よりも何代も前の時代から万葉仮名は使われていたことになります。
この発見により万葉仮名の歴史を解き明かすことに一歩近づくことになりました。
そんな木簡の発見から2年後の2008年に奈良県の明日香村にて「 阿 左 奈 伎 尓 伎 也 留 之 良 奈 伎 麻 久 」という万葉集の7巻に収録された歌が書かれた木簡が発見されました。
この木簡は石神遺跡の溝付近から「己卯年(679年)」と書かれた木簡と一緒に発見されたので、天武朝のものだということがわかりました。
この発見された木簡の歌が編纂されたのは750年ごろとされているのですが、それまでの通説としては「作者未詳歌」は奈良朝の編纂における比較的新しい歌であるというものがありました。
しかしこの歌は新しいとは言えず、この木簡の発見によりそれまでの通説が覆されることになりました。
まとめ
今回は歴史を研究する上でとても重要な資料となる木簡と万葉集の関係について解説をしてみました。
次回は万葉集の歌人である額田王について書こうと思いますので、ぜひ読んでいただければと思います!
次は宮廷歌人の額田王の名歌について解説するよ!
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