みなさんこんにちは、夏みかんです!
今回は、中学・高校の古典や歴史で習う『万葉集』について簡単に解説をしていきます。
勉強する際には軽い落とし穴も存在するので、その点にも気をつけていきましょう!
早速見ていこう!!!!!
そもそも万葉集とは何か
はじめに概要について軽く触れておきます。
『万葉集』は様々な身分の人物が詠んだ歌が集められた歌集となっています。
みなさんの中には、授業で『万葉集』は日本最古の歌集である。というように習ったことがある方がいるかと思います。これは実際は誤りです。
『万葉集』の中には『万葉集』が成立するよりも昔の歌集からの引用があり、最古でないことがわかります。これらのことを「先行歌集」と言います。
ではなぜ「最古」と習ったのかというと、「先行歌集」は今現在存在しないからです。つまり、『万葉集』は「現存する日本最古の歌集」ということになります。
編纂者について
みなさんの中学校や高校の先生によっては『万葉集』の編纂者は大伴家持(おおとものやかもち)というように教わったかもしれません。ですが実際はこれも少し異なります。
『万葉集』は編纂に何人もの人物が関わっていました。『万葉集』が完成した時期には諸説ありますが(下記の成立時期についてにて後述します)、現在伝えられる万葉集の大部分を作成したのは大伴家持というようにされています。
テストで編纂者を聞かれた際は大伴家持と答えるのが正しいですが、実際は複数人いたということを軽く覚えておいてください。
成立時期について
成立時期についてはいくつか説があるので、紹介させていただきます。
1 天平宝字3年(759)頃説
20巻最終歌の作歌時期であり、江戸時代の万葉学者は大体この説を唱えていました。
2 宝亀2年(771)以降説
宝亀2年10月に、武蔵国というところが東山道から東海道の国に配属が変更されました。万葉集の14巻の「東歌」によると、武蔵国歌は東海道に属しているとされています。それを踏まえると万葉集の成立はこれ以降であることが明らかになりました。なので1の天平宝字3年(759)頃説は間違いということになります。
3 延暦4年(785)頃説
この年は家持の没年であり、『万葉集』の最後の編纂者が家持であれば成立はこの年以前です。ですが家持の自作歌に異伝があるため、大部分を家持が編纂していたとしても、成立自体はさらにこの年以降となります。
4 平城朝(806~809)頃説
収録されている歌は飛鳥・奈良時代のものであり、家持が生前にほぼ完成させていたため、中学・高校では「万葉集は奈良時代の作品」というように習うことが多いようです。ですが『万葉集』の成立は平安朝初期と学会では認められているようです。
まとめ
学校で習う『万葉集』については専門的なことを学ぶ必要がないので、様々な内容が簡略化されがちです。しかし細かく見ていくと実際は今回紹介したような違いがあるとされています。
ですがこれらはあくまで一説で、歴史にはまだまだ解明されていない点が多くあります。それは『万葉集』も例外ではありません。なので、これからの研究によってはこれまでの説が大きく覆されることがあると思います。なので、あくまで説ということを念頭においてください。
また、今回紹介した大伴家持について画像を引用させていただいた高岡市万葉歴史館様は万葉集に関する展示やイベント、さらには入場無料で『万葉集』に関する論文や本が読める図書閲覧室があります。中学生以下であれば展示の観覧料も無料とのことなので、ぜひ興味がある方は一度チェックしてみてください!
次回は『万葉集』に関連する「木簡」についてになります!
解説するので次回もよかったら見てね!!!
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